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いくつもの工程を経て、製造される丹後ちりめん。 そのしなやかさの裏側をご紹介します。
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| 1 繭
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1粒の繭からは、約1,200m内外の生糸がとれます。品質の良いちりめんを創るには、この繭からとれる原糸の良し悪しが重要になります。一反に約3,000個の繭が必要となります。
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| 2 生糸
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製糸会社によって加工された生糸を入荷しますが、特に経すじや撚りむら等に注意して、常に最高級品を追及しています。
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カセになっている生糸を糸わくに捲きとります。熟練された技術で慎重に作業を行います。この工程がしっかり出来ていないと製品の完成度に影響がでます。
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| 4-1 合糸
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(よこ糸)所定の太さに糸の本数を合わせます。
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| 4-2 緯たき
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糸を熱湯でやわらげ撚糸を容易にするため、又撚糸後の撚止め効果をよくするためです。
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| 4-1 整経
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たて糸を織機に仕掛けるために整える作業です。わくに捲きとった糸を、一定の張力と長さで整え、織物の全幅に必要な数にし、ワープビームに30反〜50反分のたて糸を捲きとります。
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| 4-3 湿式八丁撚糸
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水を落としながら、よこ糸に1mあたり3,000〜4,000回の強い“より”をかけてシボのもとを作ります。
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| 4-4 乾式イタリー撚糸
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◎撚糸の種類 ■片撚糸(素ぬき) ■諸撚糸、駒撚糸 ■節糸(壁撚) ■変り撚糸
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| 5 製織(機織り)
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まず、たて糸を織機にかけます。そしてよこ糸が加わり、ジャカード機によりとても美しい模様を織り出し、紋意匠ちりめんが誕生します。 一般にいう「はたおり」とはこの作業のことをいいます。
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| 6 節取り・生機検査
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織り上がった生地を一反一反、結び・節などを取りながら検査します。
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| 8 白生地検査
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練り上がった白生地ちりめんを、一反ずつ慎重に、また厳重に検査します。
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| 7 精練
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織り上がったちりめんは丹後織物工業組合の加工場にて精練作業をし、 セリシンというニカワ質や汚れをきれいに洗い落としてようやく純白のやわらかなちりめんとなります。
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検査を済ませた製品は、手描き友禅や、型友禅、絞り染め、ろうけつ染めなどの染加工が施されます。
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| ■奈良時代から織りつがれる丹後の里
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“二度と行くまい丹後の宮津、縞の財布が空になる” と唄われた京都府北部の宮津・加悦谷・峰山・網野一帯が丹後ちりめんの里。 この地方は大和文化と出雲文化の交流地で、全国的にも有名な多くの古墳群に見られるように、早くから丹後独自の文化が開けていました。 1200年前の奈良天平時代にはあしぎぬという絹織物を大和朝廷へ宝物として調貢し、足利時代には精好(せいこう)や絹紬(けんちゅう)という名品を織っていた記録があります。
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| ■ちりめんの祖・絹屋佐平治
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丹後ちりめんが、今のように独特のシボを持ち、絹の風合いと感触を最高に発揮する織物になったのは享保5年(1720年)のことです。峰山の人、絹屋佐平治が京都西陣の機屋(はたや)へ奉公し、秘伝の技術…糸繰り、糸口の仕掛け、シボの出し方などを、苦心さんたんの末に学び取り、丹後へ持ち帰って今日の丹後ちりめん技術のいしずえを築きました。以来、絹屋佐平治は丹後ちりめんの祖と仰がれ、その心と技は里人に受け継がれています。
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江戸時代、丹後国峯山(たんごのくにみねやま)(現在の京都府京丹後市峰山町)に、絹織物(きぬおりもの)を織って暮らしている絹屋の佐平治(さへいじ)という人がいました。 丹後国は古くから絹織物を産するところで、絹紬(きぬつむぎ)や精好織(せいごうおり)という高級品もつくっていました。しかし、京都の西陣(にしじん)でお召(めし)ちりめんという新しい織物が開発され、それまで有名だった丹後精好(たんごせいごう)も、田舎絹(いなかぎぬ)といって相手にされなくなってしまったのです。 丹後の織物のことを心配した佐平治は、西陣のお召ちりめんのように織り上がった布の表面にシボという小さなボツボツの織模様ができる織布をつくり出そうと、いろいろ工夫をこらしたり、西陣の織屋(おりや)に奉公(ほうこう)に行って糸撚機(いとよりき)や織りの技術を学んだりして、研究に打ち込みました。佐平治は何度も失敗を繰り返すなかで、何とかよい工夫がないかと、信仰している禅定寺(ぜんじょうじ)の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)に、七日間の断食祈願(だんじききがん)をかけて工夫を祈ることにしました。
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佐平治はどうしたらあのシボができるのか、知恵を、力を与えてくださいと、必死になって祈りました。 七日間の断食祈願が終わる日のことでした。祈りに疲れて、ついうとうとと眠りに誘われた佐平治は、夢のなかで聖観世音菩薩の声を聞きました。 「シボは車のなすところ、その加減(かげん)こそ秘事(ひじ)なれ…この故(ゆえ)にもっとも他見(たけん)をいむ…」 佐平治は、夢のお告げからシボは糸を撚(よ)る車に仕掛けがあるのではないかと気付いたのです。 佐平治は、再び京の西陣の織屋に住込み、織り手として人一倍熱心に働きながら、糸撚りの車の仕掛けを学ぼうとしますが、当時の西陣ではこの技術が他に伝わらないように決まりをつくり、糸撚りは土蔵づくりの密室で立ち入り禁止で行われていたのです。 大晦日(おおみそか)に近いある夜のことでした。あの糸撚り車のある土蔵づくりの部屋のかぎが開いているのを見た佐平治は、これはもう小西の聖観世音菩薩のお導きに違いないとなかへ入り、暗がりのなか、車の仕組み、糸口の仕掛け、糸撚り加減などを、かすかにもれてくる月明りを頼りに探りました。そして佐平治は丹後へ帰り、暗がりのなかで確かめた車の仕組み、糸口の仕掛けなどを一つ一つ思い出しながら、あれこれと独自に工夫をこらしました。 そして佐平治はついにちりめんを織り出すことに成功しました。それは享保(きょうほう)5年(1720年)の春、桜の花がいっぱいに咲き乱れる季節でした。長い長い苦労がやっと報(むく)われたのです。できあがったちりめんは、西陣のお召ちりめんよりはもっと厚手でシボも高い、峯山独特の丹後ちりめんでした。苦しい暮らしのなかで、佐平治の努力を陰から支えてきた家族や友人たちも、心から喜び合いました。 佐平治は、こうして成功した糸撚り機や織りの技術を、地域の織り屋や機織(はたお)りをしている貧しい人たち、さらには近江(おうみ)の長浜(ながはま)の人に惜しげもなく教えました。米の不作や織物の不景気に苦しんでいた人たちは大変喜び、佐平治を心から尊敬しました。
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佐平治が織り出したちりめんは、次第に丹後ちりめんとして京の人気を集め、丹後の織物を取り扱う店も増えていきました。享保13年(1728年)、峯山藩(みねやまはん)も京都町奉行所(まちぶぎょうしょ)と協議して七軒の問屋を選定して販路(はんろ)の開拓に乗り出しました。 享保15年(1730年)、ときの藩主(はんしゅ)は土地の繁盛(はんじょう)を喜び、佐平治の功績を認めて「お召縮緬(めしちりめん)ちりめんや」と紺地(こんじ)に白く染めぬいた暖簾(のれん)を与えました。また、このときから佐平治は、名前を「森田治郎兵衛(もりたじろうべえ)」と改めました。 佐平治の住んでいた町は、明治の初めに織元(おりもと)と改められ、「丹後ちりめん始祖森田治郎兵衛翁発祥地(しそもりたじろうべえおうはっしょうち)」の碑(ひ)が建てられました。佐平治の墓は森田治郎兵衛翁の墓として峰山の常立寺(じょうりゅうじ)にあり、今でもその業と徳をしのんで参詣(さんけい)する人が絶えません。
【出典、参考文献】 「丹後ちりめん始祖 絹屋佐平治ものがたり」峰山町/「峰山郷土史 上巻」峰山町
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